グイノ神父の説教

 

A年

年間第23主日から

王であるキリストの祝日まで


   
年間第23主日
年間第24主日

年間第25主日
年間第26主日
年間第27主日
年間第28主日
年間第29主日
年間第30主日
年間第31主日(祝い諸聖人)
年間第32主日
年間第33主日
王であるキリスト

    年間第23主日  A年  202096   グイノ・ジェラール神父

       エゼキエル 33, 7-9     ローマ 13, 8-10    マタイ 18,15-20

  最近はますます個人主義が溢れるようになって来たのでイエスは、今日はまたとても実現しにくいことを要求しています。昔、小さな村で暮らしていた人々は何でも公に人々に知られていました。あるいはまた、すべての物を共同で使っていた時代の修道院の人たちならイエスが願っていることを簡単に行えたでしょう。しかし現在では、人の正しくない態度を咎めるためにわざわざとその人の所へ行って、出会うことはとても考えられないことです。私たちは人の犯した罪を知っていても、それは彼自身の問題なので、彼自身の良心に従えばよいのではないでしょうか。私たちには全く関係がありませんと考えます。

  しかし、イエスはこの考え方を追い払います。なぜなら、私たちの考えが隣人愛にどっぷりと浸かった考えになって欲しいからです。私たちは他の人々に対する責任も持っているとイエスは理解させようとします。かつて預言者エゼキエルに委ねられた使命は、現在の私たちの固有の使命となりました。なぜなら、神の救いの協力者である私たちも「危険を告げる見張りの人」ですから。望んでいても・いなくても、承諾していても・していなくても、私たちは神の目には兄弟姉妹に責任を持つ者です(参照:創世記4,34)。

  この責任の実現について、イエスは矛盾したことを私たちに忠告します。イエスの話によると、人の目にあるおが屑を取り除くよりも、まず自分の目から丸太を取り除く方がいいということです(参照:ルカ6,41)。また罪の女を石で殺そうと望むファリザイ派の人々に、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(参照:ヨハネ8,7)とイエスははっきりと忠告しました。人を咎め、罪びとと決めつけるためには、キリストと同じように完璧で、謙遜と愛で満たされている人とならない限りはとても無理です。また勇気も必要です。なぜなら「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(参照:マタイ7,1)とイエスは忠告したからです。では、何をしたらよいのでしょうか。人の過ちを咎めるのか・黙っているのか、咎めるなら一人で相手と出会うのか・数名と一緒に出会うのか、このようなことに対応するのは至難の業です。

  教会の歴史を見れば、教会は信仰に反する異端の問題以外は、一度も人の言い訳を聞くためにその人を一人で大勢の人の前に立たせたことがありません。教会は神の愛と赦しの印ですので、人を切り捨てて破門したりはしません。異端者自身が教会から離れるのです。教会は仲間のキリスト者から離れるその人の選びと決意を公に認めるだけです。とにかく、矛盾しているように聞こえる勧めと要求によって、私たちはお互いに助け合うことが必要だということをキリストは教えています。私たちはキリストの神秘的な体であり、すべての人の救いの責任者です。

  人と繋がることによってしか私たちは信仰に生きることができません。それは強制的なものではなく、ある種の解放です。私たちが一緒に生きることで、人生のトラブルや問題を解決できるイエス私たちの間に留まっています避けてはならない条件としてイエスは次のようにそれを確認し勧めました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(参照:マタイ8,20)と。イエスは日曜日のミサの時だけではなく、私たちの人生のあらゆる面にも存在しています。

  確かにイエスはわたしたちと共におられます。もし、あなたも私も、祈り・分かち合い・赦しによって人々と繋がりを保つなら、必ずイエスは共におられます。私たちは信仰の兄弟の幸せとをとても大切だと思うなら、その人を悪い傾きから解放するために、彼と出会うべきです。もし万が一その人の無理解や暴力、批判があるならば、イエスは私たちのすぐ傍におられることをよく知ってください。 私たちの正しい行動は教会とキリスト者の一致を強めるからです。また私たちも自分の過ちを認めて、兄弟姉妹の助けと励ましを望むなら疑いもなく私たちは、キリストの教会とキリスト者の一致を強めます。ですから遠慮なく、恐れなく、預言者エゼキエルのように私たちは「危険を告げるかしこい見張りの人」になりましょう。アーメン。


      年間第24主日A年  2020913   グイノ・ジェラール神父

          シラ書 27,30-28,7  ローマ14,7-9  マタイ18,21-35

  恨みは怒りと復讐を生み出す悪い雑草のようなものです。受けた傷や害を百倍にして、復讐しようとする野望がいつも頭から離れません。多くの人にとって復讐することが、受けた傷や害を癒すための唯一の方法です。

  77回復讐する(創世記4,24)というレメクの提案の悪い結果を確認したハムラビ王は紀元前1750年にメソポタミアの国民に「目には目を、歯には歯を」という「同等の刑」の法典を強要しました。エジプトの文明になかったこの「同等の刑」を、数世紀後、モーセがイスラエルの民に与えました。この規定を利用したところ「復讐の精神」を抑える最も効果的な手段となりました。これ以後、受けた悪に対して同じように行う掟は、文明に大き進歩をもたらしました。

  紀元前2世紀に賢明なベン・シラは復讐と恨みを育てるモーセの掟と正反対のことをします。「憤りと怒り、罪びとにはこの両方が付きまとう。…隣人から受けた不正を許せ。そうすれば、お前の罪は赦される…自分の死を思い…隣人に対して怒りを抱くな」と。ベン・シラが提案するこの知恵はとても理論的です。なぜなら、神に自分の罪の赦しを願うなら、その人はまず自分が害を与えた隣人を赦すことが必要ですから。結局、平等は返す悪の中にあるのではなく、隣人に惜しみなく与える限りない赦しの中にあります。

  抜き差しならない復讐に足を突っ込んでしまう人は、復讐から恨みの深みへ、そして最後にはこの状態から出られないことになります。悪に耐え忍ぶ限り、悪は決して入ることができませんが、悪を止めるのは赦ししかありません。

  「何回赦すべきでしょうか」とペトロは尋ねましたが、イエスにとって赦しには限りがありません。ペトロにイエスは昔のレメクの提案を繰り返しました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と。七の七十倍と言えば、つまり、ずっとと言う意味でイエスにとって赦しには限りがありません。確かに、イエスにとって赦すことは神を礼拝することにまさっています。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをしなさい」(参照:マタイ5,23-24

  どれほど神に対して私たちは返済不能の債務者であるかをイエスは思い起こさせました。赦しは、神の愛と慈しみに与からせる貴重なものです。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい…赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられるあなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(参照:ルカ6,36-38)。

  キリスト者は悪を耐え忍び、いくら難しくても苦しくても、どんな犠牲を払っても人を赦し、何とかして神の愛と赦しを具体的に示す人だとイエスは私たちに思い起こさせます。キリスト者は、イエスと共にイエスのために、生き・行い・赦し、そして死ぬ人ですから(参照:第二朗読 ローマ14,7-9)。アーメン。


     年間第25主日A 年   2020920   グイノ・ジェラール神父

        イザヤ 55,6-9    フィリピ 1,20-24, 27    マタイ 20,1-16
  
  ぶどう園のために人々を雇う今日のたとえ話の主人は、最初に雇った労働者に対して正当なことを約束しました。一日の働きの給料として一デナリオンはとても正しい報酬です。雇い主の務めは、労働者に働いた分の報酬を正しく支払うことです。ブドウ園の持ち主は、皆に正しい給料を与えることにしました。

 ですから、ぶどう園に最後に雇われた労働者たちは、ほんの少ししか働いていないので、当然受け取る賃金も少しのはずです。しかし、ぶどう園の主人は朝早くから雇った人々と同じ賃金を彼らに渡しました。これは一体どういうことでしょうか。実は、このぶどう園の主人は2つの違った理論に従っています。それは正しく行うことを要求する理性の理論と寛大さと良さを現すことを要求する心の理論です。

 預言者イザヤの教えを理解するために、今日のたとえ話はとても役に立ちます。神は私たちのように行いません。「神の考えは私たちの考えと異なっています」。私たちの思いは利己主義や嫉妬や野心で汚されています。しかし、神の思いは慈しみと善良さで溢れています。神にとっては、最後の人は最初の人となるのです(参照:マタイ19,13)。天の国では、罪びとは正しい人に先立ちます(参照:マタイ21,31)。神は憐れみ深い方だからこそ、正義の神です。私たちも神に倣って、憐れみ深い人、正義の人となることが、神の唯一の望みです。どうしても必要な正義は、憐れみと寛大さの内に行われることが望ましいです。神の愛は公平さをはるかに越えているのです。これこそ、イエスがたとえ話を通して説明し、宣言する「神の国」です。

 さて、イエスは、今日のたとえ話で、まず、神が理解されず、人々に批判されていることを説明します。次にイエスは、この人たちの考えと態度について考え直すように神の質問を投げかけます。『わたしの気前のよさをねたむのか。』とは、つまり『私は寛大さと善良さを示したので、あなたは悪くなるのですか」と神は尋ねます。確かに神の愛と寛大さは、時々私たちにとって耐え難い試練と躓きとなる可能性があります。特に、「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ 5,45)ことを忘れる時にそのことが起こります。神の愛と寛大さは伝染病のように人に巻き付き、その人が愛すること、善良で正しい行いを実現するように要求します。

  神は絶えず人を探して歩み続けるので、信仰のある私たちも足踏みするわけにはいきません。神はご自分の愛の素晴らしさを知らせるために、私たちを彼との出会いに誘います。もし、神の心を理解したいのなら、神の愛と神のなさり方に自分自身を委ねることが、必須条件です。なぜなら、神の愛は確かに無償の寛大さと正しい行いの実践を教えていますから。この愛で満たされた態度をパウロは「自分の体に示されているキリストの偉大さの現れ」また「福音に相応しい生き方を送ること」(参照:フィリピ1,21 フランシスコ会訳)と呼びます。

 神の愛は私たちの心を広げることによって、嫉妬と他人と自分を比べる悪い傾きから開放します。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心にそそがれました」(参照:ローマ5,5)。ですから、私たちが、謙遜に、喜びをもって、この無償で、すばらしい愛を自分たちの周りに示す恵みを父なる神に願いましょう。アーメン。


    年間第26主日 A 年  2020927日    グイノ・ジェラール神父

        エゼキエル18,25-28   フィリピ 2,1-11    マタイ 21,28-32

  私たちは皆分裂した心を持っています。なぜなら、言葉で理解したことを具体的に実践しないからです。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(参照:ローマ7,19)と聖パウロも正直に認めます。私たちは自分を第一にし、自分を大切にしたいので、頼まれたことや決めたことをしないように都合のよい言い訳を見つけて、自分を弁明します。そういう理由で「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と聖パウロは勧めています。自分のことについて気にするだけでなく、他の人のことも心にかける必要があります。これこそ「主のぶどう園へ行って働く」ことです。

 確かに、主のブドウ園で働くことは具体的な行いによって世界を以前より良くするために他の人と出会い、迎えることです。福音はいつも自分を新たにする単純なことを要求します。預言者エゼキエルも単純な勧めを私たちに与えます。「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる」と。

 「『お前たちは立ち帰って(回心して)、生きよ』と主なる神は言われる」(参照エゼキエル18,32)と預言者エゼキエルは宣言します。安全な未来は、私たちの生き方にかかっています。誰であろうと人は皆、毎日自分の決断の狭間で戦っています。自分を縛る鎖を作るか、破壊するか、あるいは前に進むか、後に戻るかということを決めます。聞く人の耳に美しく快い言葉だけでは十分ではありません。口先だけで言われた「はい」が、具体的な行いを引き寄せないなら無意味であり偽りです。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(参照:1ヨハネ3, 18)と聖ヨハネも勧めています。「言うだけで、実行しないで、背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(参照:マタイ23,3-4)ファリサイ派の人たちと律法学者をイエスはよく批判しました。ですから、イエスはわざと今日の二人の息子のたとえを彼らに語りました。

  二人の息子のたとえ話を説明しながら、イエスは三回「言葉を『信じる』」という表現を使って自分の教えを終わりました。「言葉を『信じる』」とは信頼を示すことです。このようにして、洗礼者ヨハネの言葉を信じた徴税人や娼婦たちは回心できました。ファリザイ派の人々と律法学者は洗礼者ヨハネの呼びかけを聞いても、彼についてぶつぶつ言う以外に、何もしませんでした。

  預言者エゼキエルとイエスご自身を通して、神が私たちに伝える言葉を信じることは大切です。神の言葉を信じて、心に留め、言われたことを実行すれば私たちも必ず回心できます。これについてイエスの言葉を思い起こしましょう。「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入るのである」(参照:マタイ7,21)

  マリアに訪問されたエリザベトは、聖霊で満たされて、いとこのマリアに次のように宣言しました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(参照:ルカ1,45 )と。 イエスご自身が私たちに向ってこの慰めと命の言葉を宣言して下さるなら、私たちはとても嬉しいと思います。ですから神の言葉を聞いて、言われたことを信じて、それを実現するように私たちの全身全霊を尽くしましょう。アーメン。


     年間第27主日  A 年  2020104日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 5,1-7    フィリピ 4,6-9    マタイ21,33-43

  聖書によれば、ぶどう園はいつも豊かさと幸せと平和の象徴です。イスラエル人は平和と安らぎを望む時にブドウ園について語る習慣があります。「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」(参照:列王記上5,5)、「人は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。人々はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かす者は何もない」(参照:ミカ書4,3-4)と記されています。

  しかし、預言者イザヤもイエスもブドウ園について語る時には豊かさと幸せと平和を約束するよりも、強い怒りを表し、神をひどくがっかりさせ、期待外れで失望させられていると啓示しています。このブドウ園を「わたしは見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる」(参照:イザヤ5,6)と神は忠告しています。

  今日のたとえ話の結論を出時に、イエスご自身がとても厳しい判決を下しました。「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(参照:マタイ21,43)と。預言者イザヤと主イエスにとっては、先ず神の言葉を聞くことの拒否、次に回心の拒否、そして委ねられた使命の拒否、更に良い実を結ぶことのできない状態など、これらすべての態度は神が私たちの内に置かれた信頼と希望をひどく傷つけることです。その結果、神の揺るぎない慈しみと深い憐れみは「抑えることのできない強い怒り」に変化します。

 信仰は耕すブドウ園のようなものです。安らぎを味わい、問題を防ぐために、人はただ一人では信仰生活ができません。キリスト者は、神における信仰が実らせる実りを自分だけのものとしてはいけません。とりなしの祈りや分かち合いによって他の人々に分け与えなかったものは、天に納める宝にならないので(参照:マタイ6,20)完全に失われてしまいます。イエスは、父なる神のぶどう園で働いただけではなく、自分自身をぶどうの実として十字架という搾り機に引き渡されました。世界中の畑でよく働いたイエスは、また苦しみによって砕かれた麦の種(一粒の種)となりました。このようにイエスは「天の国のぶどう酒」そして「永遠の命のパン」となりました。それゆえに、私たちミサ祭儀の時にそれを記念し宣言します。

  ですから私たちもキリストに倣って、父なる神に委ねられたブドウ園である自分の信仰の実を神に返し捧げましょう。私たちは信仰の所有者ではありません。この信仰はイスラエルの民と世界に広がっているキリストの教会のものです。この信仰を宣言することで、またこの信仰に生き、この信仰を生かすことによって私たちは豊かな美しい実を結ぶことができます。

  信仰を照らし、強める聖霊が私たちの言葉と行いを導くように切に願いたいと思います。そうすれば、私たちを見て、満足する神は、ぶどう園が示す豊かさと幸せと平和を私たちに溢れるほど与えるでしょう。そしてさらに、聖パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに望むことを、私たちにも与えられるように神に願いましょう。「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守りますように」(参照:フィリピ4,7)アーメン。

      年間第28主日 A年  20201011   グイノ・ジェラール神父

        イザヤ 25, 6-9    フィリピ4,12-14,19-20     マタイ 22,1—14

  今日のすべての朗読は食事について述べています。厳しい現状の時が終わったので、預言者イザヤはイスラエルの民が喜び祝い、ご馳走するように誘います。今日の詩編に描かれているように、敵の前に油とぶどう酒が溢れるようにテーブルに整えられているご馳走を畏れずにいただくように招きます。聖パウロは場合によって断食することも、満腹になるほど食べることもできると説明します。最後に福音のたとえ話は、結婚の宴会に参加するように、例外なしにすべての人を招きます。さらに、私たちがこの教会に集まったのは主の晩餐を分かち合うためです。

  私たちに残されている課題が一つあります。ご自分の子イエスの婚宴に参加するために神の招きをどのようにして私たちは現代の人々に提案できるでしょうか。飢えていない人々や、出席したくない人々を宴会の食卓に座らせるために何をしたらよいでしょうか。この「美味しい肉と美酒の溢れる祝宴」を前にしてなぜ大勢の人が食欲のない者になってしまうのでしょうか。どのようにすれば神の慈しみと無限の愛についての新しい福音宣教が、たくさんの人を神の方へ引き寄せることができるでしょうか。

  「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来ています。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(参照:黙示録19,79)と聖ヨハネは真剣に誘います。神の慈しみと愛を知って無関心であることできません。それが理解出来なくても人の心から感謝と感嘆が豊かに湧き出るはずです。本当に神は私たちと大喜びで浮かれて騒ぎ、婚宴を祝いたいのです。そしてご自分の喜びを私たちと分かち合いたいのです。そして婚宴の礼服であるご自分の栄光を私たちの身にまとうように神は切に望みます。

 私たちが着るべき婚宴の礼服とは「神の愛が私たちの内に満ち溢れるための」神の招きです。神の内に生きることこそ、真の婚宴の礼服です。残念なことに、私たちは神に招かれた客であると同時に、神の花嫁であることを忘れがちです。聖ヨハネはそれをはっきりと思い起こさせます。「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(参照:黙示録19,8)と。

  婚宴の礼服を着ることは、愛の完成に入ることを保証します。つまり神のすべてが私たちを覆うように神の喜びのうちに入ることです。言い変えれば、神と一致して天の喜びに与かる恵みを受けることです。洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちは、皆、婚宴の礼服を着ました。「私たちはキリストを衣として着ました」(参照:ガラテ3,27)。そういう訳で、聖体拝領をする時に司祭は次のように宣言します。「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い」と。もし、私たちはキリストの食卓に与かることが本当に幸せな者であると思うなら、ミサの中で言う普通の受け答えよりも「そうです、主よ。私はあなたを自分の内に迎えることがとても幸せです」と答えた方が、よほどいいと思います。それを口で言わなくても、せめて心の中で神に向かって叫びましょう。

 ですから、キリストと共に、一つの心・一つの体・一つの魂になる幸せを、神が私たちの顔に現し輝かせますように心から願いましょう。神が聖霊の働きによって、霊的なものに対する私たちの飢えと渇きを深めるように願いましょう。また私たちの共同体がすべての人に与える喜びの目に見える印となるように祈り、努めましょう。そして何よりもまず、終わりなく私たちを愛し、絶えずご自分のすぐそばに引き寄せる神に感謝と賛美を捧げましょう。アーメン。

        年間第29主日20201018日  グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 45, 1-4   1テサロニケ 1,1-5  マタイ 22,15-21

  大祭司の許可なしにイエスが優れた権威をもって人々に教えることを律法学者たちとファリサイ派の人々は許せません。イエスの評判が彼らに恥をかかせます。イエスは滅ぼすべき邪魔な人です。死を招く罠にイエスを落とし入れるために、イエスの敵たちの意見は全員一致しました。善を行うよりも、悪を実現するために人々が容易に集まることを私たちはよく知っています。勿論、イエスは賢いやり方で敵の罠と策略を挫折させました。しかし、総督ピラトにイエスの死刑を宣告させるために、敵たちは協力して同じ罠を使うことにしました。イエスの裁判の時に次の偽証をするのです。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(参照:ルカ 23, 2)と。そう誓って、イエスがどうしても抹殺するべき、ローマ帝国の危険な反対者であることピラトに納得させたかったのです。

  「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエスは自分の敵たちに巧みな返事をします。しかし、イエスの敵たちはイエスを「ローマへの反逆者」または「ローマ人の協力者」にしようとして、ローマの皇帝や政治に関するレベルにまで議論を提起しようとしましたが、イエスは上手にこの議論を神に関する宗教的なレベルに導きます。そしてイエスの答えは、敵たちの偽善と悪と共犯をはっきりと見せることで、彼らを無力にします。結局イエスにかけた罠は、そのままイエスの敵たちに返ってきました。

  お金と政治の権力は人間が作ったものです。皆の幸せと利益のために使われるお金と政治の権力はとても役に立ちます。しかし、悪い使い方をすればお金と政治の権力は人間を支配するもの、奴隷にするものになってしまいます。いくらローマ皇帝が力強い人であっても、彼はいつか神に自分の支配について説明しなければならない人です。ただ神だけが神であり、人間は神の似姿に作られました。人間は神に属するものであり、政治と経済の権力ある世界には属していません。神の似姿に作られているので(参照:創世記1,27) 人間は聖なる者であり、永遠に生きるように召されています。しかし、国々の政府や政党や財界などすべていつか完全に消え失せます。

  偽善者の敵たちにイエスは次のことを思い起こさせます。まず、ローマの皇帝は全能者ではない、次に皇帝の銀貨に書いてある通り彼は神ではありません。「神のものは神に返す」ことは自分を誠実にみることであり、また、皆の利益と幸福のために自分の行いの責任をとること、さらに、宣言する信仰に応じて正しく生きることです。

 イエスの敵たちが偽善の言葉でお世辞を言ったように、イエスは「真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない、人々を分け隔てなさらない」方です。自分の反対者たちに答えることによって、イエスは「神の権威によって、自分たちの教えを保証する」彼らの主張を厳しく咎めます。ファリサイ派の人々は自分たちの人間的な考え方と教えを神の名によって人々に強制的に押し付けるからです。ファリサイ派の人々は宗教的な責任を持っているので、自分たちの責任が神の権威に等しいものだと信じさせたいのです。皆が彼らに従い、彼らの言う通りにしなければなりません。イエスはファリサイ派の人々を神の前に置くことで、偽善者である彼らが反省するように導きます。「神のものは神に返しなさい」と。

 今日、聞いたイエスの教えによって、偽善を避けて、謙遜に神の望まれることを知る助けになりますように。またこの教えによって、私たちが「永遠に残る、上にあるものをさがし求める」(参照:コロサイ3,1-2) 知恵を与えられますように。皆一緒に神に感謝と賛美を捧げましょう。なぜなら、特別な権威や権力を持っていてもなくても、この世界を前よりも美しく、人間らしく、調和あるものへと変化させるために、私たちは神の似姿に創られているからです。アーメン。



        年間第30主日  A年  20201025  グイノ・ジェラル神父

         出エジプト 22,20-26    1テサロニケ 1,5-10   マタイ 22,34-40

 先週イエスは、反対する者たちが掛けた罠を上手に失敗させました。しかしこの反対者たちは諦めずに、イエスに新しい罠をかけるためにもう一度集まりました。イエスは許可なくイスラエルの民を教えているので、彼の教えが正しいかどうかを試すことに決めました。律法学者たちとファリサイ派の人々は、人が第一に大切にすることを「神に与えるべき礼拝」か、それとも「果たすべき日常生活の社会的な義務」かについてずっと議論していました。そこでイエスの教えを知るためと同時に彼を試すために一人の律法学者がイエスに近寄り「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねました。

 イエスは即座に答えました。「重大な掟は一つではなく、二つあります。そして、この二つは強く結ばれている」と。この答えは、イエス自身が今生きている状態をはっきりと示しています。というのは、神の子としてイエスは、いつも父なる神に向って人々にその愛を示すために、人々の世話をするために遣わされています。イエスにとって、神はすべての人の父だからこそ、神への愛は決して人間への愛に逆らっていません。イエスは神への愛と隣人への愛を同じレベルに置いたので、律法学者たちにとっては、この考え方は彼らを驚かせ、唖然とさせる新しい教えでした。

 イエスは、他の状況の時にも違った話しで同じ教えを繰り返しました。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(参照:マタイ25, 45)と。また聖ヨハネも自分の手紙の中で、この教えを思い起こさせました。「 神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(参照:1ヨハネ4,20)と。 隣人に対して罪を犯すことが神の怒りを引き起こすことだ(参照:出エジプト22,22-23)と、今日の第一の朗読は教えています。

 イエスを罠にかけるために来た律法学者たちは、隣人への愛の最も重大な掟だけではなく、神への愛の掟も破りました。勿論、彼らはイエスの神聖を知りませんでした。しかし、イエスを通して神ご自身を試しました。「あなたたちが、あなたたちの神、主を試してはならない」(参照:申命記6,16)と言われているのに。

 律法学者に与えた答えによって、イエスは神の愛に人間的な広さを与え、隣人への愛に神的な広さを与えました。隣人の内に神を見つけ、その隣人を愛することは、実は神を愛することだとイエスは教えました。言い換えれば、神も、人間も同じ愛と同じ尊敬に相応しいとイエスは教えています。モーセが神から受け、イスラエルの民に伝えた十戒は、同じことを教えています。神に対する掟と人々に対する掟は、強く結ばれているからです。ファリサイ派の人々と律法学者たちが議論していた問題は消えました。神への礼拝と人間の日常生活の社会的な義務の間で選択することはもう必要ではありません。大切なことは愛することです。何にもまして「自分のように」愛することです。アーメン。


     年間第32主日  A年 020118   グイノ・ジェラール神父

     知恵の書 6, 12-16     1 テサロニケ 4, 13-18     マタイ 25, 1-13

 今日から三回の日曜日にわたって私たちは三つのたとえ話を聞くでしょう。このたとえ話は同じテーマを語ります。それは「キリストの到来」です。「生者と死者を裁くために」イエスは来られますが、それがいつなのか誰も分かりません。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ4,36)とイエスは教えました。ですから、私たちが知恵を尽くしながら目覚めているのは当然です。

 知恵という恵みは未来について何も教えませんが、人が絶望しないように待ち望む助けになります。「うまく行動するだけでは十分ではありません。始めたことを長く続けるために、心構えをもってその時がいつであっても成功するための手段を取る必要がある」と十人の乙女のたとえ話が理解させようとします。知恵は用心深さの源です。

 今日のたとえ話は少し変だと感じませんか。なぜなら、慈しみ深いイエスはいつも互いに分かち合うことを勧めています。ところが、賢いと言われた乙女たちは、油を分かち合うことを断ったのに婚宴の場所に入りました。一方、用心深さを見せなかった乙女たちは、婚宴の場所がよく照らされるように、足りない油を店へ買いに行き油を買って帰って来ると、何の説明の言葉もなく婚宴の席から締め出されました。このたとえ話からは何かの教訓が与えられるということはありません。単に「キリストの到来の神秘」を理解させようとします。なぜなら、なかなか来ない花婿はキリスト自身ですから

 また、愚かな乙女たちが婚宴から追い出されても、「キリストの到来はこのたとえ話の中で「審判」として描写されていません。そうではなく、キリストの到来は愛と喜びで満たされている盛大な祝いに参加するための誘いです。ですから、この出会い、絶対にすっぽかすことがないようにしましょう。私たちしばしば神も、神の審判も、自分の死さえも恐れています。しかし、イエスとの出会いは、大きな喜びと終わりのない幸福を運び、夫婦の愛はその印となっています。イエスと出会うことは婚宴の喜びに入ることです。たとえ私たちがそれを理解しても、私たちにとって実際にはどうなるかを想像することは非常に困難です。

 ですから聖霊と共に神が与える知恵の恵みを心に留めましょう。「知恵」は私たちに対して示されている「神の無償な愛」だと第一の朗読は説明しました。預言者イザヤも次のように説明しました。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするようにあなたの神はあなたを喜びとさる」(イザヤ62,5)と。このたとえ話は花嫁について何も言いませんでした。なぜなら、私たち一人ひとりがこの花嫁ですから。私たちは神の花嫁、神がおられる婚宴に入るように召されています。いつか聖パウロが教えている通り「わたしたちが、空中で主と出会うために、彼と一緒に雲に包まれて引き上げられます」(1テサロニケ4,17)。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。

 愚かな乙女たちと賢い乙女たちと言えば、既に救いの神秘を祝う全人類の一部分であり、キリストの栄光に輝いている教会です。この大切な事実を理解するなら、私たち神の知恵で満たされています。ですから、目を覚まして、用心深さをして、信仰のともし火と共に愛と分かち合いの油の余分を持ちましょう。それは皆、愚かな者も、賢い者も一緒に、同じ時に、婚宴の席に入ることができようにするためです。日曜日のミサ祭儀はいつも私たちの希望を養い、そして私たちが永遠の喜びに入るための準備をします。そうであれば、待たずに声を高らかにして叫びましょう。「主よ来てください私たちはあなたを待ち望んでいます.マラナタ、主よ、来てください」。アーメン。


    年間第33主日 A年 20201115   グイノ・ジェラール神父

      箴言31,10-1319-2030-31    1テサロニケ5,1-6    マタイ25,14-30

 イエスのたとえ話は、とても分かりにくいです。今日、聞いたたとえ話は僕の間にあった不平等な分かち合いを称賛しているようにみえます。その上、生産性を高めるための競争原理へと僕たちを駆り立てています。そしてそれができなかった人を厳しく罰しています。それはまったく福音の教えに反しています。ですからたとえ話が語ることをそのまま文面通りに取らずに、伝えようとしている本当の教えを探して発見しましょう。

 イエスの時代の1タラントンは、とても高い元金(事業などを始めるための資金)で、大きな金塊であり、ほぼ30年間の給料、つまり全生涯の労働の賃金です。3人の僕は各自の力に応じて、もっと多く実らせるべきとんでもない資金を主人から受け取りました。ですから、僕たちは今までの仕事を辞めて、主人の代わりにこの金塊の管理をするように招かれているのです。そういう意味で、ご自分の救いの業に私たちを参加させることで、神は私たちに対する計り知れない信頼を示しています。世の救いのために働き、神の国を広げ発展させるように私たちは招かれています。確かに、私たち一人ひとりは、洗礼を受けた時に神の協力者となって、たくさんの恵みと共に大きな責任をいただきました。私たちが活動的であり想像力豊かな人、そして神と共に創作者であるようにというのが、神の強い願いです。

 ですから、自分自身に自問しましょう。私たちは活動的で行動力のある者でしょうか。それとも活気のない消極的な者でしょうか。ここで考え違いをしないように。悪いことをしないこと、あるいは何もしないことは決して「良いことを行うこと」を意味していません。そのように思っている人、神は審判の日に次ように告げられるでしょう。「友よ、たしかに悪いことも、不正なこともしていません。だがあなたは何もしませんでした。見てあなたの手は空っぽです。君は、リスクもチャレンジも取らずに、何も実らせませんでした。『わたしと一緒に集めない者は散らしている』(参照:ルカ11,23)と忠告したのに」と。今日のたとえ話を通して、「活動力とチャレンジ精神を持たないキリスト教の信仰は、実を結ぶことが出来ないということをイエスは思い起こさせます。

 「恐ろしくなった」と3番目の僕が弁明しました。彼は大きな金塊を受けても自分に対する主人の信頼を読みとることが出来ませんでした。以前から主人に対しての眼差しを持っていたので、この僕は恐怖を感じたのです。言い換えれば、彼は主人の寛大さと信頼を心に巡らすよりも、主人の厳しさと非妥協性について強く考えたのです。神に対する私たちの見方と考えは、必ずキリスト者としての私たちの振る舞いと活動に影響を及ぼします。

 神への信頼は活力と想像力に翼を与えます。今日の箴言の模範的な女のように私たちは十分活力を出しているでしょうか。彼女が褒めたたえられている理由は、毎日の日常生活の仕事に愛と希望の無限さを見つけているからです。私たちは「目覚めているか、あるいは、ほかの人々のように眠っているか」、「暗闇に留まることを選ぶか、それとも光の子になるか」とテサロニケ教会への手紙で聖パウロは尋ねます。

 キリスト者としての義務は委ねられた信仰の遺産を守ることではなく、それをもっと豊かにするために、リスクを顧みずに果敢にチャレンジすることを要求します。私たち神に対して持っている信頼で満たされますように。神に対して持っている信頼で満たされた平安な私たちの見方と考えに聖霊のエネルギーが与えられますように。そうすれば 世の救いと神の国の発展のために働くことによって、私たちは「神と一緒に喜ぶ忠実な良い僕」になるに違いありません。アーメン。



   王であるキリストの祝日 A年 20201122 グイノ・ジェラール神父

     エゼキエル34,11-1215-17  1コリント15,20-2628  マタイ25,31-46

 私たちが「宇宙万物の王」として祝っている方は、何にもましてい牧者であります。この方は私たちをご自分の心の平和で憩いの場である神の緑の牧場にまで導くのです。全能の王であるよりもイエスは愛と慈しみに溢れる良い羊飼いです。

 そう言う訳で、預言者エゼキエルは神を牧者として紹介しました。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と。イエスはご自分が「羊をよく知っており、羊のために命を捨てる」(参照:ヨハネ10,15)この良い牧者であることをしばしば宣言しました。イエスの愛はとても強いので、父なる神と同にイエスもとても感激して心を揺さぶられ、苦難している全人類と一致して、人間になりました。

 貧しい人、屈辱をうけた女、虐待された子ども、飢えている人、移民人、裸の人、病気の人を愛することによって、イエスは宇宙万物の王となりました。考えると、私たちも同じ神の霊に満たされて、生まれたばかりの弱くて、泣いている裸の赤ちゃんを見て、また交通事故や洪水あるいは地滑りで破壊された家を見てとても心を揺さぶられるのではないでしょうか。私たちは神の似姿に造られているからこそ、他の人の不幸前にすると私たちの胸も非常に痛みます。

 助け合いと同情の精神が私たちを満たすたびに、私たちは具体的に行動するしかありません。このようにして私たちは神の国に入る準備をするのです。実際に実行で示した素朴な愛の分かち合いと助け合いの行動は、本人が知らなくても「永遠の瞬間」になるに違いありません。

 世の終わりに神の国が現れることを信じてはいけません。イエスは何回も言いました「神の国は私たちの間にある」(参照:ルカ17,21)と。確かに、同情や赦しや分かち合いと慰めなどの行動は神の国を近くに引き寄せ、イエス自身を私たちの間に来させます。私たちの周りにたくさんの愛の業を実現することによって「父なる神の祝福された者」になりましょう。私たちは神の救いの計画の証人であり協力者ですから。そうして私たちと出会うために宇宙万物の王であるイエスはいつも隣人の顔を借りていることをよく知っています。ですから、何も恐れずに聖霊がくださる喜びのうちにあって、愛の溢れる心を持って、不幸を味わっている人々を迎えに行きましょう。アーメン。



 
トップページに戻る